アノネノネ。

作品紹介ともろもろ

久しぶりに何か書きたくなった。

元の投稿が2年前なものだから書いていたことすら忘れていた

さて1回ほど書いてみるかと思って開くと何故かログイン出来たのである

セキュリティがうんたらの話よりも自分が2年前とそんなに変わってない事が面白い

 

海外で半年ほど暮らして新しい言語を身につけた

日本語を合わせて3つも言語を日常会話できるほどに習得すると

次は何の言語をしようかなんて考え始める

そういえば台湾に遊びに行くから一時期中国語やろうとしてたなとか

中原中也に倣ってフランス語やろうとしてたなとか

候補がないわけではないが

そもそもまだ他の2つの言語も

日常会話程度しかできないのであるから極めたい気持ちがある

こうやって沢山の未来を想像して一日は終わる

 

既にここまで読まれていればお気づきだろうが書きたいことは大してない

端的に言うと論文を書くという現実からの逃避である

しかし、そんな単純なものではない

 

はずだ

 

2年前と比べると相当“哲学学”を学ぶ方法を取得したように思う

専門も芸術哲学から政治哲学に移行した

まあ実のところ芸術哲学の浮遊感と高揚感の中を彷徨い続けたいのであるが

 

それはさておき

少しは地に足をつけることも大事でしょう?

 

あ、

 

BTWが数年の時を超えてようやく終了した

ボス戦だけ残っていて、ずっと放置していたのだ

久しぶりに再開したBTWは時が経っても変わらずそこにあった

なんとなくフィールドを散歩し続けた

時はとっくの昔に熟していたのだと思う

終わるのが寂しかったのかもしれない

一瞬で倒したボスと再び平和になった世界が保存されることはない

達成感より虚しさと寂しさが残る

またやりたい、BTW

でも開いてしまったら一度平和になった世界はなかったことになり、

早くボスを倒してくれという催促の嵐を再び受けることになるのだろう

寂しい、寂しいなあ

誰も何も考えなくなってしまったのか。

以前から、

 

何故、現状況に何も思わない人、

危機感を抱かない人がこれほどまでに多いのかと疑問に思っていた。

 

だが、最近色んな人から話を聞いたり、本を読んだりしていく中で、

「何も考えていないからだ」という思いが強くなった。

 

何も考えていないというのは、

「非連続的な私」を生きているということだ。

 

非連続な私に社会は存在しない。

自分と実際に関わる人との関係を有効に保とうとすることにしか注意は払われない。

だから個人的な問題が、

実は社会の仕組みによるものかもしれないなんて考えることはない。

 

非連続性は時間に対しても言うことができる。

時間に非連続だから、

今の社会のあり方が将来にどのようにつながるのかと考えることはない。

 

みんなが大変な時期だからみんなで乗り越えようと思うだけだ。

一日でも早く、感染者が少なくなれば良いと願うだけだ。

コメンテーターの浅い発言を盲目的に受け入れる。

もしくは、直感的に否定する。

 

そんな彼らの背後には虚無が広がっている。

省略言語。

文章を書くことを習慣付けたいがまあ六ヶ敷い

 

思いついたことは携帯しているメモ帳に記しているのであるが、

先日、箇条書き乃至単語の羅列が多いことに気が付いた

 

それ故に、このブログ上にて思考の言語化を行なおうと試みている訳である

 

然し乍ら書きたいことがまだまだ頭の中で纏まっていないから

自分の書いたことに対する違和感が拭えず、

一向に筆が進まない

 

現代の日本社会における表現能力の低下を憂いて

日本語のリハビリにと始めたのだから中身はどうだって良いのだが

 

数日後には自身の文章を消してしまいたくなるのだ

 

これでは元も子もないと思いなおし、

中身のなにやかやは一先ず置いておいて、

「アレ」「ヤバい」等の省略言語を用いないように努めようと決めた

 

他の人がそのような言語を省略言語と述べているのかは知らないが、

ここで述べる省略言語というのは、

本来であれば異なる言語として表される事柄が

その言葉一つで全てを包括してしまうような言語である

 

省略してしまうことによって、

人の持つ象徴は貧相なものとなる

 

つまり、〇△×とバラバラであった筈の象徴が

「形」という言葉の中に纏められて

最終的には元々あった〇△×は忘れ去られてしまうということである

 

人の表現力を憂う前に自身の言語能力を今一度顧みる必要がある

やる気がない。

ここ数か月、引きこもりを極めてしまっている

 

毎日やることと言ったら

あつ森でメッセージボトルの回収と売られている商品の確認だ

 

正直、快適

 

働かなくていいし、嫌な人間に会う必要がない

 

当方中原中也が途轍もなく好きなのだが、

一生仕送りで生活していた彼が心底羨ましい

 

そういえば、新しい発見があった

 

それは、

 

「時間があるからと言って、

忙しいときにやりたいと思っていたことをするわけではない」

 

ということである

 

どんなに暇でも本を読むわけではないし、掃除をするわけでもない

(ピアノはちょっと弾くようになった)

 

では、何をしているか

 

ぼんやり麻雀を打って、昼寝しているだけだ

 

このところ世界が私に気を遣って一日の時間を短くしていると本気で思っている

 

そんな気遣いいらないのだが

 

モチベーションだけが日に日に増していくばかりだ

 

近所の栗の木はすっかり激臭を放つようになっていた

良い酔い心地。

ほろ酔いです

 

日によって酔い方が違うのですが今日は良い酔い心地です

 

さて、今日はやりたかった本の紹介です

 

ジョルジュ・バタイユの『内的体験』


内的体験 無神学大全 (平凡社ライブラリー) [ ジョルジュ・バタイユ ]

 

 

ダダやシュルレアリスムの思想が好きでそれに関連する本を読んでいましたが、

その中の一つ酒井健さんという方が書かれた『シュルレアリスム


シュルレアリスム 終わりなき革命【電子書籍】[ 酒井健 ]

 

がまあ面白くて

 

今後徐々に文章にしていけたらと思いますが、

私の関心がある分野は元々、ルドルフ・オットーの提唱するところの

”ヌミノーゼ”に近いのです(私の場合、宗教的意味に限られませんが)

 

非合理的・非理性的なものに惹かれて、

ユング鴨長明老子の本を読んでいました

 

思想に限らず、宇宙の話も生物の話も物理の話も全部面白い

 

どんどん話が脱線していくので元に戻します

 

酒井さんは、バタイユの研究者だそうで

 

『内的体験』はそんな私にはもってこいの書籍

 

内的体験を本当に大まかに説明するとすれば、

 

漠然とした内的運動であって、以下なる対象にも依拠することなく、指向性も持たない*1

 

体験であり、

 

それ本来の性格である偶然性、瞬間性、主観性、無用性(無意味さ)を回復する*2

 

もの、と言えるかもしれません

 

また、これは宗教的意味(信仰と協議)を持たず、

恍惚感と同時に様々な矛盾した状況に身を置くことになります

 

西洋の方だし、元キリストの教の方なので共感できない部分もありますが、

固有名詞を挟まない記述については読み進めるのがもったいないと感じるほど

読み応えがあります

 

私の場合、同じく酒井さんの著書であった『バタイユ入門』


バタイユ入門【電子書籍】[ 酒井健 ]

 

から読み始めましたが、『内的体験』はやっぱり難しい

 

私は彼の好きな哲学者を全く存じ上げていないので

引用したり、それを用いて論を展開している部分は理解しているなんて到底思えません

 

分からないところもありながらもとりあえず読み進めています

 

ニーチェ、いつかは読むのでしょうかね~・・・?

 

今日はいっぱい本を紹介してしまいましたが次回はその内容を色々話せたら良いですね

 

書ききれないほどの面白い記述が彼の書籍にはいっぱいあります

 

最後に、メモ程度にバタイユの記述を載せておきますね

 

沈黙という語もまた音であり、語るとはそれ自体、認識すると思い込むことであり、もはや認識するまいとすれば二度と語らぬほかはあるまいということだ。(中略)言葉、逃走にしか役立たぬ言葉が、私が逃走をやめたとき、私を逃走へと引き戻す。*3

 

 

*1:『内的体験』、P. 46-7

*2:バタイユ入門』、P. 29

*3:『内的体験』、P. 43

はじめまして。

アノ音。です

 

みんながそろそろ日常に戻りつつあるという時に始めてみました

 

だらだらと文章を書きます

 

ちなみに、普段は新書ばかり読んでいて小説はあまり読まないのですが

この間読んだSF小説『三体』は良かったなあ

 

宇宙空間に没入できるSFは小説でも映画でも大好きです

 

詳しい話はまた後日

 

そういえば、最近カフェラテを家でつくるのにはまっています

混ぜる機械はないので抹茶を点てる茶筅を使って牛乳を泡立てます

 

それが結構美味しい